2016年04月20日

これはデジャヴ?

 9時商工観光課・課題ヒアリング、10時30分人事課課題ヒアリング。
 昼食幕ノ内弁当。
 13時職員向け講演「農業と6次産業〜ブランド化へ至るプロセス」
 夜、食事兼飲み会。役所の近くは、飲食店が少なく、限られた中から選ぶことになる。カレーうどん。壁にタレントの色紙がたくさん。「石ちゃんも来ましたか?」と聞くと、県内や隣接の大阪のタレントがほとんどで、まだ石塚さんのアンテナにはかかっていないようだった。酒を気持ちよく飲んだ。ホテルへ着き、ベッドの上で明日のスケジュールを確認していると、いつの間にか、寝入ってしまい、23時ころ起きる。風呂へ入り、就寝。ホテル到着後の記述が昨日とニアリーイコールだ。デジャヴ?(昨日の滞在記参照)

 奈良県というと、思い出すのが亀井勝一郎『大和古寺風物詩』。当方の高校時代(昭和52年-55年)、現代国語の出典として、1位が夏目漱石『硝子戸の中』で、2位がこれだった。3位は忘れたが、小林秀雄だったかもしれない。1位と2位くらいは読んでおこうと思って、旺文社文庫『硝子戸の中』を買った。他の文庫にも入っていて、むしろ、そちらのほうが安かったのだが、旺文社文庫は、解説がダントツで詳しかったのだった。『硝子戸の中』は、あまり面白いと感じることがなく、亀井勝一郎『大和古寺風物詩』を買った。この本は、戦前から書かれていたもので、やはり読みにくい部分があり、軽く通読しただけだったが、印象的なフレーズがいくつかあり、今週、御所市立図書館で35年ぶり(!)くらいに借りて読んでみたが、おぼろげに覚えていた。今は忘れやすいが、高校時代の記憶力はあなどれない。例えば、次のようなフレーズ「しかし僕らは博物館の中で、何かしら不幸ではないか。東京の国立博物館でも、奈良博物館でも、法隆寺宝蔵殿でも、ふっと空虚な淋しさを感ずることがある。病院の廊下を歩いているような淋しさだ。…この空虚とは何か。淋しさとは何か。僕は近頃になって、それが愛情の分散であることにはっきり思い当たった。つまり博物館とは、愛情の分散を強いるようにつくられた近代の不幸ではなかろうか。・・・僕らはもはや昔の人が感じるように古寺を感じてはいない。僕らが感じているのは、実は寺ではなくて博物館ではないか。この無意識の変貌を僕は最も惧(おそ)れる。」(亀井勝一郎『大和古寺風物詩』日本ソノサービスセンター 昭和43年 p56)
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PS.『硝子戸の中』は、あまり面白いと感じることがなく・・・と書いてしまったが、大学入学後、家にあった夏目漱石『三四郎』を何気なく手に取って、読みだしたが、巻を措く能わずで、しばらく没頭することになった。青春時代ゆえなのだろうか。明治時代のストーリーなのだが、古臭さは感じない。東大のキャンパスを初めて訪れたときは、まず三四郎池に行ったほど。同じ年頃の学生に場所を尋ねると、「地味な池ですけどね・・・」と言われたものだったが。今も文京区を歩いていると、ふとこの小説を思い出したりする。『三四郎』を水のイメージの小説と捉える評論があり、少し納得。ここから発展して、夏目漱石『彼岸過ぎまで』、森鴎外『青年』、武者小路実篤『友情』など読んだが、『三四郎』ほどは熱中できなかった。実は、『三四郎』は小6の時、誕生プレゼントとして、W君がくれたものだった。分厚さを敬遠して、10年近く読まずにいて、W君ごめん。


posted by 林 秀一 at 23:54| 読書 | 更新情報をチェックする
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